めぐることば
前回の記事、わたしが現在一番ことばにしたかったことでした。これまで生きてきた中でずっと持ち続けてきた違和感をどうにか一歩よい方向へと前進させることばにしたかった。またそれは、感じたこのわたしが語るべきなのだろうという謎の使命感に背中を押されてやっとことばにできた。
想いが強くって、その分書くのにいつにも増して力が入ったし、どうことばにしたものかウンウン唸った。どうしたら誰も疎外しない、それぞれの読み手に寄り添った文章になるのか。ブログを始めてから、表現するってこんなにも孤独で考えあぐねる作業なのかと感じていたけれど、その実感がさらに大きくなった。
どうしてもこの文章は多くの人に読んで欲しくて、普段は受け身のSNSで発信した。これまでのわたしの“まとめ作文”の発表会みたいな気分で。正直とてもとても恐かったし、恥ずかしかったけれど。
もう何年も話していない人から、いつも仲良くしてくれている人までいろんな人が反応をくれた。ことばにしてくれてありがとうって言ってくれる人、記事をシェアしてくれる人もいた。それぞれがどんな人・もの・ことを想い、あの文章を読んでくれたのかわたしは分からない。
でもなによりことばが誰かのどこかにスッと入り込むように、わたしのことばが誰かのことばになり、そこにあたたかい空間が生まれたことが心から嬉しかった。あ、届くんだ、と思った。
ということでブログ燃え尽き症候群になっていたため、随分とあいだが開いてしまいました。
燃え尽き症候群と並行してある人に向けて手紙を書いていて。とても傷つく可能性があったけれど一皮むけるためにどうしてもことばにしたかったから。
でも結局ことばは届けられなかった。とても悔しくて、 哀しくて、なにも届けられない自分を責めそうになった。
少し経って今、ことばは届けたい人に届けたいときに届くとは限らないんだって気が付いた。わたしがやろうとしていたことは、ことばの押しつけだったかもしれないとも。届ける人の気持ち、時や場所、いろんなものが揃ってはじめて届くのだと。だってわたしのことばを受け取ってくれた人、あんなにいたじゃん、きっとその人達とはタイミングが合ったんだなと思って。
届けられるのは今じゃないかもしれない、いつか届くかもしれないし、届かないかもしれない。でも誰かひとりに届いたらとても嬉しいし、巡り巡ってあの人に届いたらそんな嬉しいことはないよね、今はそんな気持ち◎
諦めと安心感が入り混じった不思議な軽やかさにつつまれている。
11月。新しい生活をすっきりとした気持ちで始められそうです◎