わかりあえないことをわかりあう-共に生きる
わたしは人と人は分かり合えないんじゃないかなって思っている。それはどんなに仲の良い友達でも、どんなに長年連れ添った夫婦でも、生まれた時から知っている親でも。
みんな違うもの・こと・ひとに触れて自分だけの世界、考え方が育まれていくのだから。どんなに一緒にいる人もほんの少しの部分を共有しているだけであって、その人の世界はその人だけのものなのだと思う。見ている世界が違うのだから、楽しい、哀しい、恐いの感じ方も人の数。楽しいと感じれば楽しいし、哀しいと感じれば哀しいんだ。
たぶんひとりの人ってとても複雑で、いろんな想いや経験がややこしく絡み合って形づくられていて。行動、ことばとして外に出てきたものだけでその背後に広がるひろーい世界をうかがい知ることは難しいと思う。だから、ややこしく絡まり合った心のうちを「あなたのこと分かったよ」なんてわたしには言えない。
人は“分からない”と感じることに距離をおいてしまう。分からないから恐れや不安、怒り、憎しみを抱くことも。“分からない”ことによる偏見は時に凶器になり、人を傷つけてしまうことがある。そのズレが対立を生んでしまうこともある。
人のことは分からないし、自分のことも分かってもらえないと思う。
そんな分からない・分かってもらえない、寂しさ、哀しさ、口惜しさ、もやもやを抱きしめて、みんな“ひとり”で生きていくんじゃないかな。
でもね、その分かり合えない部分こそが、おもしろい“違い”だと思う。“違い”って大切にしたいものが人それぞれってだけで、何が良いとか悪いとかじゃない。わたしはその人が大切にしたいものを知りたいし、わたしも大切にしたい。どうしてそうするのかな、どう感じているのかな、そこにある想いはなんだろうって知りたい。
たとえそれがわたしには分からなかったとしても、へぇーだからそうするんだね、そう感じるんだね、そう考えるんだねって。ただひたすら、そのままをまるっと受け止める。分かり合えなくたって、受け止め合えればそれでいいんじゃないかな。
受け止め合うって、きっとみんなあったかくてうれしい。
誰かの“違い”を受け止めるってことは、巡り巡ってあなたの“違い”も誰かに受け止められるってことだとわたしは思っている。
誰かの大切なものも大切にするってことは、自分の大切なものを大切にするってこと。
みんな違うけれど、似ているところやおんなじところもたくさんあると思う。暗い世界より明るい世界がいいし、泣いているより笑っている方がいい。“違う”部分を受け止め合って、その上で共有できるところはないかな、歩み寄れるところはないかなって対話しながら、みんながより生きやすい方法を一緒に探していけたらいいな。
それはたぶん面倒くさいことだと思う。笑 共に生きるって面倒くさいんだと思う。笑 でもわたしはその“違い”と“違い”の化学反応から生まれるよろこびや豊かさをだいじにしたいし、そこになにか愛おしさのようなものを感じる。
みんな“ひとり”かもしれない、でもきっと“ひとり”じゃない。
分かり合えなくても分かち合えるあたたかさがきっとあるから。
分かり合えないことを分かり合うことから何かはじまるんじゃないかな。
分かり合えない“違い”を分かり合おうとする諦めの悪さと、“違い”をおもしろがる好奇心を心にとめて。
いろとりどりの“違い”が輝く世界に。願いを込めて。