まぶしいほど青い空の真下で
生まれたところや服や目の色で
一体この僕の何がわかるというのだろう
運転手さんそのバスに
僕も乗っけてくれないか
行き先ならどこでもいい
こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問い詰める
まぶしいほど青い空の真下で
小学校の夏休み、有志の先生・保護者がひらく平和集会で。おとな達が音楽、朗読、劇…それぞれの形で平和への想いを伝えてくれました。その時、先生が弾き語りしてくれた曲、THE BLUE HEARTSの『青空』。
戦争、平和、偏見、そんなことばで表すと現実離れしたように感じてしまうかもしれないけれど、このままじゃだめだろっていう違和感、行き場のない憤りは日常の色んなところに感じられる。誰かが平和な差別のない場所へ私たちを乗っけて連れて行ってくれたらいいけれど、そんなことは決してない。わたしもあなたもみんなこの世界の一部を担っているのだから、そんな場所をつくっていくしかないのだ。と思う。
この歌詞の解釈は無限にあるのだろうけれど、私にとっては歴史から学んだこと、先人達が託してくれた願い、ちゃんと受け止めて自分の手で世界をつくっているか、と鼻先に突き付けられたような、そんな気持ちになる歌です。
祖母が長崎で原爆投下の瞬間を見たそんな話を聴いたり、私にとって原爆や戦争の話は遠いいつかのどこかの話ではない。それもあってか、母はとても平和教育には熱心で、夏休みには必ず戦争をテーマにした映画を見に連れて行ってくれました。先日感想文を読み返してみたのですが、大したことはなにも書いてなくて。笑 でも、今大人になって考えてみると、毎年夏休みに平和や戦争について考えたあの時間がとってもとっても大切なもので、自分自身のあり方のルーツをつくってくれたのだと思います。だから自分の子どもの世代にもちゃんと伝えていきたい。
でも何を?どう?今まで聴いてきたこと、見てきたこと、感じてきたこと、でも実際に経験はしていないことを、どうやって次の世代に伝えていけるのだろう。でも考えている間にも、戦争を経験したお年寄り達はどんどん高齢化していく。だから今は受け取れるものを、めいいっぱい受け取っておくべきなのかな。
戦争の体験を語ることはできなくとも、目の前にいる人と平和を育んでいくこと、自分のすぐそばから“偏った一部分を見る”ことをなくしていくことなら、自分なりの形で伝えられるかもしれないなって思います。
今日もまぶしいほどの青空が広がっています。