なにをせずとも
何もしないというのは難しいことなのかもしれないなということを最近よく考える。
わたしはなんにもない時間を過ごすということが苦手だ。もちろん暇であればそれなりの時間の過ごし方をするのだけれど、ネットで動画を漁ったり、散歩したり、なーんとなく非生産的に過ごしてしまうことが多いのだ。元々忙しいのが好きな性格で、だからなにかある時間の方が楽だし、やることがある方が楽なのだ。でもどこかでなんにもない時間をうまく過ごせるようになりたいという想いがあって。それが人のヨユウを生むような気がしていたから。
だからだろう、なんにもない時間に目標を持って勉強する人や趣味を思いっきり楽しむ人を見ると憧れと同時に負い目に似たものを感じることがあった。
でも少し前に、この子はなんにもない時間の使い方がうまいなぁ、ゆっくり自分の時間を過ごすのがうまいなぁと思っていた友だちが、『何にもしなくていいってわたし無理だな』と言っていた。おどろいた。この子もなんにもない時間が苦手なのかと(!)
なんにもない時間が得意な人なんて実はそういないのかもしれない。うまく見える人もまたなんにもない時間をなんとかやり過ごすために、“がんばって”なにかを見つけながら過ごしているのかもしれない。のうのうとぐだぐだとなんにもない時間を過ごしているように見えても、それはものすごくエネルギーがいることなのかもしれない。
たぶん“役に立たなくては”という気持ちが大きいのだ。人の役に立つように、社会の役に立つように、将来の役に立つように、自分の役に立つように。だからって役に立つことばかりしてきたかってそんなことはなくて、なんにもない時間に得たものは、なんにもある時間に得たものにとって代わることはできないことも分かっているのに。それでもやっぱり役に立とうとしてしまう。
それはひとりの人がひとりぼっちでは生きていけなくて、ほかの人やこの世界との結びつきの中で生かされているからなのかな。
この世界と自分を結びつけることが役に立つってことで、自分の居場所が生まれるってことなのかなって。役に立つことでそこに自分がいてもいいのだと思えるというか。人やこの世界との結びつきを感じたくて、どんな小さなことでもいいから自分をなにかの役に立てようとする。役に立つことで自分の存在する意味、理由を見出そうとするのかな。
わたしたちはこの世を見るために、聞くために生まれてきた。
だとすれば、何かになれなくてもわたしたちは、わたしたちには、生きる意味が、あるのよ。
『あん』ドリアン助川 より
またもや引用してしまったこのことば。
役に立ってなくたってどこでも自分の居場所にしていいし、なんにもしなくてもいいのだと思う。世界と自分は結びつこうとしなくても、もう結びついているのだと思う。なによりがんばって結びつけようとすることで苦しくなってしまうのはとても哀しいなと思う。
それでもこの世界と自分の結び目をしっかり確認しておかないと不安になってしまうのがまた人間らしいところなのだろうけれど〇
寒い日が続くけれど、あたたかいものや、きれいなもの、おいしいもので自分を満たしていきたいなぁと思う。そして周りの人もそうであってほしい。
ほーむ
新しいまちでの生活が始まった。
古道具屋、古本屋、喫茶店…小商いのお店がたくさん並ぶ、どこか昭和の匂いが漂うまち。開拓欲がくすぐられる。
さっそく近くの定食屋さんへ。
カウンター越しにお客さん、お店の人、みんなでおしゃべり。お店のことを教えてもらったり、まちのことを教えてもらったり。わたしがずっと憧れてる“行きつけのお店”ってやつになりそうだ。
その後、定食屋でおすすめされた銭湯へ。
銭湯って常連しか受け付けない空気出してるところもあるのだけど、ここのおじちゃんはすごくフレンドリーだった。
こりゃ毎日来たくなるわ。
あーあったまった。
前に暮らしていたまちは下町がゆえにかは分からないけれど、わたしのような若者がもぐりこめる場所をみつけられなかった。
駅に降り立てば懐かしさは感じるだろうし、見馴れた景色に居心地のよさを感じるだろう。けれどわたしにとってはあいさつを交わせる人がいるという安心感ほどそのまちをhomeと感じさせるものはない。
暮らしはじめてまだ1日だけれど、このまちにはそんな安心感のある場所がたくさんできる気がして、身も心もほくほくしている。
これまでわたしが暮らしたことのあるまちは片手で数えられるくらい。そうやってhomeとよべるまちが生まれたところ以外にも、ひとつ、またひとつ増えていくってしあわせだなあ。
前の住人が残していったやつ
なんかかわいい
ことばにならない
佐賀バルーンフェスタに行ってきました。抜けるような青空の日。最高だったーー!
土手に100くらいのバルーンチームがずらーっと並んでいて。みんな土手で屋台の食べ物を食べながらバルーンの競技が始まるのを待っていて、花火大会みたいな感じ。
バーナーがゴーッと音を立ててぷくぷくと気球がふくらみ、スーッと大空に飛び立っていくのは夢みたいな光景だった。バルーンの離陸が成功する度にみんな拍手。パイロットに向かっておじいちゃんもおばあちゃんも、子どもも大人も、手をふって「いってらっしゃーい」って。
はじめは1人だし恥ずかしいなんて思っていたわたしも途中からみんなと一緒に手を振っていて。その会場の知らない人同士の一体感がとてもあったかくて1人で笑顔がこぼれました。
近くにあった大きなバルーンが遠くへ行ってしまって、ぽつりぽつりと見えるのも非日常的で、不思議な光景だった。もうただただため息が出た。浪漫ってこういうことやなーとか思いながらうっとりしちゃった。
正直このバルーンフェスティバルそんなに期待していなくて。きっと綺麗でものすごくフォトジェニックなんだろうとは思っていたけれど。
だって、写真で見て行ったところって写真負けすることが多いから。写真で見て行きたい!と思って行ってみるとなーんだってことも割とあって。photoshopってすごいなーて思ったりしちゃう。死ぬまでにみたい絶景!みたいに言われちゃうとホントかよって思っちゃうしね。いや、きっと綺麗だし行ってみたいとは思うんだけど。笑
でもでもバルーンはいい意味で裏切られた。自分の目で見れてほんとにほんとによかった。この感動が写真やことばで伝えられないのがとても悔しいのだけれど、ほんとに感動したときってそういうものなのかもしれないなぁ。
写真じゃ伝わんないもの、ことばにならないもの、ちゃんと自分で感じに行こうって思った日。
ひとりでいること みんなでいること
この間公園を散歩していたら、近くの学校のちびっこ達が先生に連れられて遊びに来ていた。みんなが鬼ごっこをしたり、わいわいする中、ひとりはしっこの方で土をいじったり、花を見ながらぶらぶらしている子がいた。
その子を見ていて、わたしはひとりでいる子がいたらみんなの輪に入れようと声をかけるようなお節介なこどもだったことを思い出した。小さい頃のわたしだったら、きっとその子のことも輪に入れようとしていただろう。そんなところを先生に褒められることも多かったしね。
でもそうやって輪に迎え入れようとすること、その子にとって良いことだったのかな。ふと昔の情景に戻って疑問が湧いた。もしかすると鬼ごっこより土いじりが好きだったかもしれない。わいわいするより静かに過ごしたかったかもしれない。みんなでいるよりひとりでいるのが好きだったかもしれない。
今考えてみるとみんなでいる方が楽しいに決まってるってみんなの輪に無理やり引きずりこむことをしていたのかもしれない。「ひとりでいるのかわいそう」っていうのは輪の中にいたわたし中心の見方だったのかもと。もちろん子どものころにそんなことを考えて行動できる訳ではなかったけれど、子どもを見守る立場になりつつある今、その子自身が好きなもの・ことを大切にできる大人でありたい。
何年も経った今そう思う。
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誰にだって、ひとりでいたい時だってあるだろうし、みんなといたい時だってあるだろう。いつもはひとりでも、たまにみんなといたくなった時は立ち寄れる、そんな場所があるといいな。子どもにも大人にも。
おばちゃんになったら家開放して小さな図書館とか駄菓子屋とか楽しそうだなー!
めぐることば
前回の記事、わたしが現在一番ことばにしたかったことでした。これまで生きてきた中でずっと持ち続けてきた違和感をどうにか一歩よい方向へと前進させることばにしたかった。またそれは、感じたこのわたしが語るべきなのだろうという謎の使命感に背中を押されてやっとことばにできた。
想いが強くって、その分書くのにいつにも増して力が入ったし、どうことばにしたものかウンウン唸った。どうしたら誰も疎外しない、それぞれの読み手に寄り添った文章になるのか。ブログを始めてから、表現するってこんなにも孤独で考えあぐねる作業なのかと感じていたけれど、その実感がさらに大きくなった。
どうしてもこの文章は多くの人に読んで欲しくて、普段は受け身のSNSで発信した。これまでのわたしの“まとめ作文”の発表会みたいな気分で。正直とてもとても恐かったし、恥ずかしかったけれど。
もう何年も話していない人から、いつも仲良くしてくれている人までいろんな人が反応をくれた。ことばにしてくれてありがとうって言ってくれる人、記事をシェアしてくれる人もいた。それぞれがどんな人・もの・ことを想い、あの文章を読んでくれたのかわたしは分からない。
でもなによりことばが誰かのどこかにスッと入り込むように、わたしのことばが誰かのことばになり、そこにあたたかい空間が生まれたことが心から嬉しかった。あ、届くんだ、と思った。
ということでブログ燃え尽き症候群になっていたため、随分とあいだが開いてしまいました。
燃え尽き症候群と並行してある人に向けて手紙を書いていて。とても傷つく可能性があったけれど一皮むけるためにどうしてもことばにしたかったから。
でも結局ことばは届けられなかった。とても悔しくて、 哀しくて、なにも届けられない自分を責めそうになった。
少し経って今、ことばは届けたい人に届けたいときに届くとは限らないんだって気が付いた。わたしがやろうとしていたことは、ことばの押しつけだったかもしれないとも。届ける人の気持ち、時や場所、いろんなものが揃ってはじめて届くのだと。だってわたしのことばを受け取ってくれた人、あんなにいたじゃん、きっとその人達とはタイミングが合ったんだなと思って。
届けられるのは今じゃないかもしれない、いつか届くかもしれないし、届かないかもしれない。でも誰かひとりに届いたらとても嬉しいし、巡り巡ってあの人に届いたらそんな嬉しいことはないよね、今はそんな気持ち◎
諦めと安心感が入り混じった不思議な軽やかさにつつまれている。
11月。新しい生活をすっきりとした気持ちで始められそうです◎
わかりあえないことをわかりあう-共に生きる
わたしは人と人は分かり合えないんじゃないかなって思っている。それはどんなに仲の良い友達でも、どんなに長年連れ添った夫婦でも、生まれた時から知っている親でも。
みんな違うもの・こと・ひとに触れて自分だけの世界、考え方が育まれていくのだから。どんなに一緒にいる人もほんの少しの部分を共有しているだけであって、その人の世界はその人だけのものなのだと思う。見ている世界が違うのだから、楽しい、哀しい、恐いの感じ方も人の数。楽しいと感じれば楽しいし、哀しいと感じれば哀しいんだ。
たぶんひとりの人ってとても複雑で、いろんな想いや経験がややこしく絡み合って形づくられていて。行動、ことばとして外に出てきたものだけでその背後に広がるひろーい世界をうかがい知ることは難しいと思う。だから、ややこしく絡まり合った心のうちを「あなたのこと分かったよ」なんてわたしには言えない。
人は“分からない”と感じることに距離をおいてしまう。分からないから恐れや不安、怒り、憎しみを抱くことも。“分からない”ことによる偏見は時に凶器になり、人を傷つけてしまうことがある。そのズレが対立を生んでしまうこともある。
人のことは分からないし、自分のことも分かってもらえないと思う。
そんな分からない・分かってもらえない、寂しさ、哀しさ、口惜しさ、もやもやを抱きしめて、みんな“ひとり”で生きていくんじゃないかな。
でもね、その分かり合えない部分こそが、おもしろい“違い”だと思う。“違い”って大切にしたいものが人それぞれってだけで、何が良いとか悪いとかじゃない。わたしはその人が大切にしたいものを知りたいし、わたしも大切にしたい。どうしてそうするのかな、どう感じているのかな、そこにある想いはなんだろうって知りたい。
たとえそれがわたしには分からなかったとしても、へぇーだからそうするんだね、そう感じるんだね、そう考えるんだねって。ただひたすら、そのままをまるっと受け止める。分かり合えなくたって、受け止め合えればそれでいいんじゃないかな。
受け止め合うって、きっとみんなあったかくてうれしい。
誰かの“違い”を受け止めるってことは、巡り巡ってあなたの“違い”も誰かに受け止められるってことだとわたしは思っている。
誰かの大切なものも大切にするってことは、自分の大切なものを大切にするってこと。
みんな違うけれど、似ているところやおんなじところもたくさんあると思う。暗い世界より明るい世界がいいし、泣いているより笑っている方がいい。“違う”部分を受け止め合って、その上で共有できるところはないかな、歩み寄れるところはないかなって対話しながら、みんながより生きやすい方法を一緒に探していけたらいいな。
それはたぶん面倒くさいことだと思う。笑 共に生きるって面倒くさいんだと思う。笑 でもわたしはその“違い”と“違い”の化学反応から生まれるよろこびや豊かさをだいじにしたいし、そこになにか愛おしさのようなものを感じる。
みんな“ひとり”かもしれない、でもきっと“ひとり”じゃない。
分かり合えなくても分かち合えるあたたかさがきっとあるから。
分かり合えないことを分かり合うことから何かはじまるんじゃないかな。
分かり合えない“違い”を分かり合おうとする諦めの悪さと、“違い”をおもしろがる好奇心を心にとめて。
いろとりどりの“違い”が輝く世界に。願いを込めて。
画面のその向こう
SNSやメールがある今だからこそ、会って顔と顔を合わせることたいせつにしたいなと思う。
LINEの文面やFacebookの投稿で、なんとなくその人を分かった気になってしまうことがあるのだけれど、たぶんなーんにも分かってない。はっぴーに見える人もそうじゃないかもしれないし、冗談に聞こえることも本気かもしれない。この人は今こんな状況だろう、こんなことを考えてるんだろう、って受け手の勝手なとらえ方でどうにでもなるからこわいなって思う。
ことばそのものも大事だと思うのだけれど、わたしはことばに乗っかった画面の向こうのその人の想いに心を寄せたい。温度やその人が発するエネルギー…目の前で時間を共有した時の、目に見えないそんなものにこそ、想いが詰まっていると思うから。
顔を合わせたときの、表情、声色、仕草…目に見えるもの、見えないもの、たいせつにしたい。
画面上のやりとりは確かに気軽だ。でも大切な話ほど会って顔を見て話をしたい。時間とお金が許すかぎり、会いに行きたい。そう思う。
インターネットな時代だからこそ生の関わりをたいせつに。
画面のその向こうに、想いを抱き、ことばを紡いでいる生身の人がいること、忘れちゃいけない。